歴史

室町時代

室町時代イラスト

両側町の誕生

平安時代後期以降は道に面して建物が建つようになり、町割りの形状にも変化が見え始めます。
「両側町」と言われる、町組みとしての共同体が成立します。 現在の京都もこの形を継承し、通りを挟んだ向かい側と町内を形成しています。

平安京創建時の四行八門の区画割

道に面して建物が建つようになる

道に面した側で町が構成される

道を挟んで町組みが構成される

室町文化と祇園祭の復活

室町幕府は三代将軍義満の頃に最盛期を迎え、「花の御所」が創設。この時代、金閣寺や銀閣寺に象徴する、室町文化が花開きます。茶の湯、生け花、能楽、狂言など、現代に通じる日本の伝統文化の始まりです。しかしここで、町が大きく様変わりすることになる出来事、応仁の乱(1467年)が勃発。守護大名の勢力争いは11年間続き、戦乱の舞台となった京の都は焦土と化しました。

しかしながら戦乱からの復興には目覚ましいものがあり、町は本格的に近代都市として活気を取り戻していくことになります。戦乱により中断していた祇園祭も町衆の手により復活。町衆の祭として、山鉾は一層豪華な装飾が施され巨大化が進みます。応仁の乱から復興し賑わう京の都は、室町~江戸時代に盛んに描かれた「洛中洛外図」でその様子が伺えます。この後、織田信長・豊臣秀吉により、京の都も中世都市から近世都市へと変貌を遂げていきます。

自衛手段として生まれた格子

応仁の乱前後は町の治安が悪化し、集落における自衛の意識が高まりを見せ、町の自治組織が発達します。自衛のためにつくられ始めたのは「構(かまえ)」。集落を取り囲む壁や土居、堀、木戸門、櫓などの構築物のことです。

これらは町の連合体である「町組」や「惣長」が構築・維持していたようです。このころ町単位で生まれた構えとともに、自らを防御する策として、住居に「格子」を取りつける発想が生まれました。