歴史

江戸時代

町家の規格化・標準化

安土・桃山時代の事は、卯建(うだつ)のように様々な意匠で飾られた町家を洛中洛外図などで見ることができます。しかし、徳川幕府による支配体制に入ってからは、2階建てを始めとして華美な家作(装飾)が禁じられるようになります。さらには江戸の中頃に起こる大火が重なり、火事後の復興に大量の住宅建設が急務となりました。このときに、建材の需要と建築技術の発展、住宅の規格化・標準化が飛躍的に進み、町並みはより一層統一されたものになっていきます。防災の観点からは桟瓦(さんがわら)が発明され、それまで板葺きであった庶民の住宅も屋根瓦が普及し、ますます町並みの調和をもたらすことになりました。

現代へ継承する町並みへ

「十八世紀頃には、前述の様々な要因により、外観も統一感のあるものに変化します。一列三室型の間取に厨子二階、虫籠窓、出格子というような、今でも京都の町中で見かける形が整ってくるのもこの頃。江戸末期になると、維新の風潮が強くなり、1864年に起こる蛤御門の変で町は戦火に巻き込まれ「どんどん焼け」と言われる大火で洛中は大部分を焼失することになります。現存する古い町家はこれ以降に建てられたものと見られ、多くは明治から大正にかけて再建されたものと言われています。

うなぎの寝床

京町家の特徴の一つに、間口が狭く奥行きが深い地形、を「うなぎの寝床」と形容する。近世の頃から都心の増加に伴い、宅地を細分化し、より多くの住居を作らなければならず、細かい宅地割になった。