体験レポート~京町家について学ぶ~
について調べました

VOL.1 歴史編

「瓦(かわら)」の字源、広辞苑では「梵語のkapalaからか」としていますが、「日本の瓦屋根」(理工学社、昭和51年刊)の坪井利弘氏は「カワラケ(土器)」という言葉の中から、屋根瓦を「カワラ」と言って、「カワラケ」を土器の総称とし肯下残したという説を強調しています。さらに甲胃の古名の「カハラ」から出たとも、屋根の皮の意味とも言われています。

史上、初めて瓦が登場するのはおよそ2800年前の中国とされています。日本にはおよそ1420年前の西暦588年、百済から仏教と共に伝来したと考えられています。『日本書記』の崇峻元(588)年のころに、「百済国が仏舎利や僧などとともに、寺工(てらたくみ)2名、鑢盤(ろばん/仏塔の相輪の部分)博士1名、瓦博士4名、画工1名をおくってきた」という意味の記述があり、彼ら(およびその指導を受けた日本の職人)の手により、法興寺(飛鳥寺)が造営されたこと(完成は596年)が、考古学的な研究からも明らかになっています。

さてここで、驚きの事実があります。法興寺は飛鳥から平城京に都が移った際(710年)に、現在の奈良市に移転され、名も元興寺と改められました。このとき建造物の一部や瓦もこちらに移されています。昭和30年代にこの元興寺の極楽坊本堂と禅室の解体修理が行われましたが、このとき確認された事実が驚くべきものだったのです。屋根から降ろされた4413枚の瓦のうち、法興寺から運ばれたものが約600枚、そのうち法興寺創建時の(つまり百済からやって来た瓦博士たちが造った瓦)が、なんと約170枚も使われていたのです。1400年にもわたって現役であり続けた瓦 当時の瓦製造技術がいかに優れたものであったかが分かるというものです。

  • 奈良時代(710~784)

    瓦が一部使われているのは寺院がほとんどです。唐招提寺金堂・講堂・東大寺法華堂・法隆寺東院礼堂などがあります。
  • 平安時代(784~1185)

     この時代は瓦より檜皮葺(ひわだぶき/ヒノキの皮を用いたもの)が多く使われていました。
  • 鎌倉時代(1185~1333)

    この時代は新しい寺院の建立や戦乱で炎上した寺院の再建などで、瓦の需要が復活したようです。また2本の角をもつ鬼瓦が多く見られるようになるのもこの時代です。
  • 室町時代

    今までの瓦屋根は、軒先の瓦に釘を打って瓦が滑り落ちるのを防いでいたのですが、これだと腐食した釘が釘穴の中で膨張して瓦を割ったり、修理のとき瓦を破損したりして、なかなかやっかいだったのです。瓦職人の橘 吉重が考案したのが、釘を使わなくとも滑り落ちない軒瓦です。軒先の木に丈夫な引っ掛かり部分をつけ、そこに瓦に設けた突起部分を引っ掛ける仕組みになっています。これは瓦の歴史の上で画期的な発明です。  瓦の技術が大きく進歩した時代で、現在でも使われている本瓦葺(ほんがわらぶき/平瓦と丸瓦をセットにして葺く)が完成したと考えられています。
  • 安土桃山時代から江戸時代初期

    織田信長は安土城を築くにあたって(1576年築城、天守閣の完成は1579年、1582年焼失)、その瓦の製作を明(みん/現在の中国)の人、一観(いっかん)に命じました。焼き上げた軒瓦の前面には蒔絵の技術を応用して金箔が貼られていたといいますから、さぞかし華麗なものだったでしょう。  瓦研究家として多くの業績を残した駒井鋼之助先生(1903~1988)によれば、燻(いぶ)し瓦の製法がわが国に伝えられたのはこのときで、それ以前の瓦は色が不揃いだったのが、どの瓦も同じ黒一色に焼かれるようになったのだそうです。原理的には現在の燻し瓦もこの時代のものと同じ製法で造られています。  なお、現在の燻し瓦は、技術の発達により表面が磨いたようになめらかになっているので、色は銀黒色になっています。燻し瓦のことを黒瓦ともいうのは、初期の燻し瓦が黒かったことの名残のようです。

     

    一観以降の瓦の大きな変化には、もう一つ、平瓦(ひらがわら)から布目が消えたことがあげられます。従来は瓦の素地を瓦型から剥がすときのために間に麻布などを当てていたのですが、雲母粉(きらこ)や粘土粉を型にまぶしておくことによって、簡単に剥がせる工夫がされたのです。

     

    瓦葺きの建造物といえば寺院か城郭がほとんどで、一般人の居宅に瓦が用いられることはあまりなかったようです。この時代の瓦屋根は本瓦葺が多かったようですが、どうしても重量がかさみ、建物自体の構造がよほどしっかりしていないと採用しにくいものだったので、結局のところ、頑丈に造られた寺院か城郭以外には瓦屋根は少なかったようです。そこに登場したのが、平瓦と丸瓦を一つにまとめた桟瓦(さんがわら)です。発明者は近江大津の人で、三井寺の用を勤めていた西村半兵衛で、延宝2年(1674)の創案と伝えられています。桟瓦は軽いだけでなく、製造や施工のコストも抑えることができたために、一般家屋への瓦屋根の普及に大きな力となりました。現代の日本建築でも、最も多く用いられているのが、西村半兵衛が発明したものがこれと同じ形であったかどうかは、残念ながら分かっていません。

     

    明暦3年(1657)、俗に振袖火事と呼ばれる大火が江戸の町を焼き尽くし、死傷者を10万人も出し、江戸城も一部を除いて焼け落ちたといいます。当時の町人の家は草葺きか板葺きで、しかも密集していたので、火事が出れば大火となることが多かったのです。8代将軍徳川吉宗(在位1716~1751)のとき、防火対策のために江戸の町屋の瓦屋根化を奨励するようになりました。また、助成措置を講ずるなどして江戸の町を少しずつ瓦葺きに変えていったのです。

  • 明治時代

    フランス瓦、フランス人のジェラールという人が横浜でフランス瓦を製造していました。洋館には伝統的な日本の瓦は向かなかったからです。
  • 大正時代

    スペイン産のスパニッシュ瓦が輸入され、モダンな感じで流行しました。この様式をいち早く取り入れ、さらに日本の風土にあったS型瓦を開発しました。 大正の末年、常滑で塩焼きの土管が製造されるようになりました。三州では、この技術を応用して赤い瓦を焼こうという試みが早速なされました。ところが土管と瓦では焼成温度も形も違うので、失敗の連続。やっと商品となったのは昭和3年(1928)のことでした。
  • 昭和時代~現代

    塩焼きというのは、焼成の途中で塩を投入して瓦を焼くもので、投入された食塩は熱で分解されガス状となりさらに水蒸気と反応し、酸化ナトリウムと塩化水素に分解されます。さらに酸化ナトリウムが粘土中の珪酸とアルミナと化合し、珪酸ナチリウムとなり、これが赤褐色のガラス状の皮膜となるのです。塩の投入は数回繰り返されます。これによって瓦は堅く焼きします、表面の光沢も増してきます。  塩焼き瓦は丈夫なことに加えて、含水率が非常に低いので、凍害に強く、寒冷地へ向けての販路も広がりました。

     

    近年では昭和末期の60年代、九州市場で開花した「防災瓦」が特筆されます。J形桟瓦の切り込み部に凸凹を付けて瓦同士が噛み合う構造としたもので、もともと台風が多く襲来する九州ではJ形でも重なりが多く、防水性が重視された足深桟瓦(深切り)などのニーズがありました。  防災瓦が普及し初めは、平成3年(1991年)9月の台風19号による広域被害がきっかけです。防災瓦の耐風性能が大型台風で実際に証明されたためで、現在、九州で施工されるJ形は「防災瓦が標準」とまで言われています。



    report by 小西